日本統治時代

日本人「廣枝音右衛門」

日本人「廣枝音右衛門」が祀られているお寺があります

廣枝音右衛門(ひろえだ・おとうえもん)という海軍巡査は、2000人の台湾人部隊を統括していた指揮官でした。派遣先のフィリピンで戦況が悪くなり、彼は「ここで玉砕するは、君達ではありません。君達は父母兄弟の待つ台湾へ生還しその再建に努めなさい。責任はこの隊長がとります。」と言い、部下である多く台湾人兵士を無事に帰国させ、自身は指揮官としての責任を負って現地で自害しました。この指揮官が、今でも台湾で語り継がれている日本人の一人です。

台湾には日台の絆を感じられる数多く物語が存在していますが、苗栗県の山間部にまつられる廣枝音右衛門(ひろえだ・おとうえもん)も戦時中、マニラの市街地で起こった激戦から台湾人青年を救った日本人です。廣枝音右衛門(ひろえだ・おとうえもん)は、「勧化」に祀(まつ)られていまいます。祀られているとはいっても神像はなく、本堂右手の部屋に位牌が置かれているだけですが、30年以上の長きにわたり、台湾の人たちによってその霊は弔われてきた。

祀られている廣枝氏は神奈川県足柄下郡生まれ。湯河原での小学校教員を経て、1930年に台湾に渡り。台湾では警察官として、基隆(きいるん)や新竹、苗栗などを転々とした。38歳の時に新竹州の警部に昇進。そして、1943年に台湾青年で構成された海軍巡査隊の指揮官に任命されました。その部隊が向かったのはフィリピンのマニラです。第二次世界大戦最大ともいわれた市街戦と向かい合うことになります。当初はまだそれほど緊迫した状態ではなかったのですが、1945年に入ると戦況は悪化、米軍の猛烈な攻撃を受けるようになります。しかし司令部からは隊員たちの三八(サンパチ)式歩兵銃を軍に差し出すことを要求し、代わりに竹槍と棒地雷、円錐弾が渡され、戦車に体当たりし玉砕しろというのです。

1945年2月3日、米軍がマニラ市街地へ突入。海軍陸戦隊が中心となっていた日本側の陸軍が撤退し、圧倒的に不利な状況で約1カ月の市街戦を耐えますが、その後街は焼き払われてしまいます。その状況下廣枝氏の部隊にも突撃命令が下されます。戦闘の続行が不可能であることは明白ですが、命令には絶対に逆らうことはできません。2月23日、廣枝氏は部下を召集し、「おまえたちは台湾で父母兄弟が待つ。行ける所まで行け」と語り、自決します。享年40歳。

台湾人の部下たちは米軍へ投降し、生き永らえます。台湾に帰還した後、廣枝(ひろえだ)隊長の恩に報いるため、「廣枝祠」を建てることを思いつのですが、当時の台湾は中華民国になっており、国民党独裁政権下にありました。独裁政権下の台湾では、敵国だった日本人を祀ることは極めて危険です。そこで、獅頭山に永代仏として合祀し、供養してもらうことにしました。そして、1976年9月26日、最初の慰霊祭が執り行われました。

毎年9月に慰霊祭は行われてきましたが、歳月の経過とともに生き永らえた部下たちの数も減り、2012年には最後の一人だった劉維添氏も慰霊祭当日に他界しまいました。劉氏は巡査隊の小隊長を務めた人物です。 劉氏によれば廣枝(ひろえだ)隊長は心の広い人格者で、誰に対しても分け隔てなく接していた様子を語っておられました。70年の歳月が過ぎても廣枝(ひろえだ)隊長への想いは決して色褪せることがなかったようです、劉氏が隊長について語る際は、いつも目に涙が溢れていました。

 

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