日本統治時代

下淡水渓橋梁の架橋工事

「日本最長の大橋梁 飯田豊二技師」

 西南部の高雄県とその東の屏東(へいとう)県はかつて下淡水渓(しもたんすいけい)と呼ばれた大河川を県境としている。流域面積では台湾最大の河川である。この河川に1913年、3年がかりで全長1,526メートルもの大橋梁がかけられました。

完成時には、天竜川鉄橋や朝鮮の鴨緑江鉄橋よりも長く、日本最長を誇っていました。この橋はトラスという複数の三角形を組み合わせた構造を用いている。24連ものトラスが延々と続く光景は、世界の鉄道技術者を感嘆させるに十分なものでした。

この橋梁が果たした役割は、下淡水渓によって隔絶されていた屏東地方を新興産業都市・高雄と直接結び農産物を鉄道で輸送できるようになりました。また高雄の港湾施設にインドネシアからボーキサイトが輸入され、アルミニウム工業が発達。屏東産のパイナップルは、アルミ缶に詰められ大半が日本に出荷されるようになりました。

高雄から鉄橋を渡る手前に位置する九曲堂駅の駅舎近くに見上げるような大きさの石碑が建っています。鉄橋の架設に努めた飯田豊二という技師の碑です。飯田技師は静岡県生まれで、1897年に28歳の若さで台湾に渡りました。1910年には鉄道部技師となり、翌年から台湾総督府鉄道部打狗(高雄)出張所の技師として、下淡水渓橋梁の架橋工事に携わったのです。しかし、過労がたたり、自らが手がけた鉄橋の完成を見ることなく、1913610日、台湾総督府台南医院で死去されました。享年40。その後、台湾総督府は飯田技師の功績を称え、この碑を建立しました。現在では石碑を中心に公園が整備され、郷土史に興味を持つ人びとが頻繁に訪れ、鉄橋と共に歴史遺産の扱いを受けています。

 

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