日本統治時代

台湾教育の聖地 芝山巌精神

<六氏先生の墓>
彼らの台湾の教育に賭ける犠牲精神は「芝山巌精神」と言われ、人々の間で語り継がれるようになった。
この「芝山巌精神」は当時の台湾教育者に多くの影響を与え、統治直後、総人口の0.5~0.6%だった台湾の学齢児童の就学率は1943年(昭和18年)頃には70%にもなった。また終戦時には識字率が92.5%に登り、後に台湾が経済発展をする基礎となった。1930年(昭和5年)には「芝山巌神社」が創建され、六氏先生をはじめ、台湾教育に殉じた人々が、1933年(昭和8年)までに330人祀られた(そのうち台湾人教育者は24人)。境内には六氏先生を合葬する墓があり、また社殿の前には六氏先生を追悼して、伊藤博文揮毫による「学務官僚遭難之碑」(1896年7月1日建立)が建てられた。毎年2月1日には慰霊祭が執り行われ、芝山巌は「台湾教育の聖地」と称された。
終戦後、蒋介石をはじめとする外省人の中国国民党の者たちが中国本土から台湾に逃げて来て、台湾は日本色を一掃する中国国民党により芝山巌神社は破壊され、本殿跡には国民党軍統局副局長だった戴笠を記念する「雨農閲覧室」が建てられた。この時、神社の隣にあった恵済宮の住職は、六氏先生の墓跡から遺骨を密かに移し、無名の墓を造って祀っていた。雨農閲覧室では、抗日運動の成果のひとつとして芝山巌事件を紹介する展示などが行われてきた。しかし、李登輝総統の下で台湾民主化の動きが進むと、芝山巌学堂が開かれて100年経った1995年(平成7年)1月1日に芝山巌学堂の後身である台北市立士林国民小学(中国語版)の卒業生により、教育に命をかけた「六氏先生の墓」が再建され、2000年(平成12年)には「学務官僚遭難之碑」も復元された。現在、周辺は芝山文化生態緑園として整備されており、自然観察、大石象、蝙蝠洞、太陽石、砲台跡、同帰所(芝山で亡くなった無縁仏の合葬施設)などを見て回ることができる。

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