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前金天主堂 カトリック信仰

玫瑰聖母堂(まいかいせいぼせど) メイクェイ ションムー ション (高雄玫瑰聖母聖殿主教座堂) 台湾では、古くからカトリック信仰しており、その象徴的な玫瑰聖母堂(前金天主堂とも呼ばれています。)を紹介します。玫瑰聖母堂はカトリック教会が台湾で建立した最初の教会で、アジア3大聖堂の一つにも数えられています。近代の台湾カトリック教会の発祥地としても知られ、台湾光復後にカテドラルとバシリカに指定されています。ゴシック様式とロマネスク様式の天高くそびえ立つ尖塔、アーチ型の窓枠、バラ窓を用いた美しく華やかな建築様式 ...

総統府の南側に並んで建つのが司法院

司法院「司法大厦」(旧:台湾総督府法院/裁判所) 総統府の南側に並んで建つのが司法院(司法大厦)。 1934年(昭和9年)に完成。設計者は後に台湾建築学会会長となった井手 薫。現存する済南基督長老教会(旧:日本基督教団台北幸町教会。1916年建立)も手がけています。台湾総督府法院には、高等法院、台北地方法院、検察局が設置され、台湾における最高司法機関でした。戦後、台湾に移管後も、司法院、最高法院(現在は移転)として機能してきました。4階部分は1977年に増築されたものですが、国定史跡となっています。

台湾総督府とその周辺

台北 総統府とその周辺 総統府を周辺とする一帯には、日本統治時代の建物の多くが現役で使われています。日本と同様、地震の多い台湾において、日本の建築物は耐震構造に優れていたという点も挙げられます。 中華民国総統府(旧:台湾総督府) 台湾旅行 台湾総督府 日本統治時代の象徴的かつ代表的建造物といえば、現在の総統府、台湾総督府の建物でしょう。1919年に完成。基本設計は、戦前、日銀本支店の建築を多く手掛けた長野宇平治で、日本初のコンペ(デザイン競争)で選ばれました。赤レンガに白い石を挟むデザインは、長野の師とも ...

台湾の近代化

日本政府は台湾で搾取したのではなく、台湾経営のために日本国民から搾取したのです。その搾取について日本人は同胞を救う事は当たり前ですので何一つ声をあげていません。領台初期の土地税を比較するとわかります、日本国内の地租は収穫の25.5%課せられていたのに対し、台湾は5%であり、朝鮮はさらに低く3.9%でしかありませんでした。日本から台湾と朝鮮へおいて大きな利益をもたらし、近代土地調査と土地制度の確立を行い、食料を倍増させています。人口も急増し、台湾などは日本国内に比べて倍増しています。 又、日本は台湾に鉄道を ...

台湾の水力発言所

現在も稼働する水力発電所と3人の殉職碑  台湾の南部は急峻な山々が聳え、多くの急流があることから、水力発電所が多数作られた。台湾の水力発言所は大半が日本統治時代に建設されたもので、今も11カ所が現役であるという。 高雄県の美濃(みのう)という小都市には、市街地から約6キロ離れた所に、竹子門(ツーツーメン)発電廠と呼ばれる水力発電所がある。1909年、台湾では二番目、南部では最初に設けられた発電所である。 発電所の建物は、日本統治時代からほとんど変わっていないという。内部の設備も、戦前からのものだ。発電機は ...

下淡水渓橋梁の架橋工事

「日本最長の大橋梁 飯田豊二技師」  西南部の高雄県とその東の屏東(へいとう)県はかつて下淡水渓(しもたんすいけい)と呼ばれた大河川を県境としている。流域面積では台湾最大の河川である。この河川に1913年、3年がかりで全長1,526メートルもの大橋梁がかけられました。 完成時には、天竜川鉄橋や朝鮮の鴨緑江鉄橋よりも長く、日本最長を誇っていました。この橋はトラスという複数の三角形を組み合わせた構造を用いている。24連ものトラスが延々と続く光景は、世界の鉄道技術者を感嘆させるに十分なものでした。 この橋梁が果 ...

阿里山開発の父

「阿里山開発の父 河合鈰太郎博士」 観光用鉄道としては、台湾中南部、国家風景区(国定公園)に指定されている阿里山の森林鉄道が有名です。軌道幅は762ミリと狭く、小さな鉄道であるが、標高差は2,244メートルに及び、連続スイッチバックやスパイラルもあり、美しい車窓を堪能できます。アンデス高原鉄道やインドのダージリン鉄道とともに、世界三大山岳鉄道の一つに数えられています。現在は蒸気機関車の復活運転なども実施され観光用に使われていますが、もともとは日本統治時代、阿里山で伐採される豊富な木材の搬出用に作られたもの ...

日本人「廣枝音右衛門」

日本人「廣枝音右衛門」が祀られているお寺があります 廣枝音右衛門(ひろえだ・おとうえもん)という海軍巡査は、2000人の台湾人部隊を統括していた指揮官でした。派遣先のフィリピンで戦況が悪くなり、彼は「ここで玉砕するは、君達ではありません。君達は父母兄弟の待つ台湾へ生還しその再建に努めなさい。責任はこの隊長がとります。」と言い、部下である多く台湾人兵士を無事に帰国させ、自身は指揮官としての責任を負って現地で自害しました。この指揮官が、今でも台湾で語り継がれている日本人の一人です。 台湾には日台の絆を感じられ ...

台湾上下水道の父

「台湾上下水道の父 浜野弥四郎」恩師バルトンと共に台湾へ渡る 恩師で帝国大学工科大学の衛生工学講師のウイリアム・K・バルトン先生に呼び出され、「浜野君、僕と台湾に行って一緒に仕事をしてくれないか」 内務省衛生局長の後藤新平から「台湾に上下水道を整備して風土病をなくしたい。この仕事を任せられるのは君しかいない」と懇願されたという。 台湾と澎湖島を領有した日本政府は、風土病に苦しんでいることは聞いていた。台湾平定までに死亡した日本兵はおよそ4800人いた、戦闘による死者は162人で、残りの4642人は風土病の ...

森川清治郎巡査

日本統治時代に台湾人のために尽力した日本人が、のちに「土地神様」として祀られています。台湾で「神様」として祀られている森川という巡査について詳しく紹介しています。 日本統治時代に台湾人のために尽力した日本人が、後に土地神様として祀られたという話はいくつかあります。日本人は、魏志倭人伝の昔から、逆境でも不平不満を言わない、盗みを嫌う、名誉に命をかける、貧しくとも高貴である、災害や不幸に負けずまたたくうちに復興するといった美徳を持っています。日本統治時代の台湾でも、そうした日本人たちは各地で活躍し、台湾人のた ...

金門島の戦いで台湾を死守した日本人

金門島の戦いで台湾を死守した日本人・根本陸軍中将がいた。 1949年1月根本氏など旧帝国陸軍軍人7名は、5月に東京を出発し、宮崎県の延岡沿岸から台湾に向けて出発し、7月10日に基隆(キールン)に到着。8月に根本氏は福建省に赴き、国民党軍の作戦に参加した。旧日本軍高官を含む軍人たちが内戦中の中国大陸に渡り、国民党軍に参加していた、国民党軍と行動を共にしている可能性が高いことを日本政府が公式に認めたことになる。白団は1949年から1969年までの20年間、団長以下83名に上る団員が台湾で軍事教官として活動し、 ...

士林国民小学 六士先生之墓

明治教育界の先駆者、伊沢修二 1895年、日本による台湾統治の開始と同時に伊沢修二が創設した芝山巌学堂「士林国民小学」をこの小学校の始まりです。芝山巌学堂が創設された翌年、日本人教員6名が土着の匪賊(ゲリラ)に惨殺されるという痛ましい事件が起りました。この犠牲者を祀る「六士先生之墓」は、戦後蒋介石政権によって破壊されたのですが、士林国民小学の校友会の手によって立派に再建されました。 小学校に音楽教育を導入した功績もある。「仰げば尊し」は伊沢の作曲とも言われています。1895年4月、台湾の初代総督に内定して ...

台湾総督府の技師八田興一

時代は前後しますが、台湾人に今でも愛され続けている日本人後藤新平を紹介します。後藤は、第4代台湾総督児玉源太郎を補佐する民政長官として児玉に同行し、1898年3月に着任しました。着任後旧慣制度の改善に努めていきます。 台湾人の悪習である阿片吸引の禁止でした。阿片吸引はオランダ支配時代から台湾に広まり、華僑を経て台湾に持ち込まれたとなっています。下関講和会議でも李鴻章は伊藤博文に対し“貴国は台湾で土匪(ゲリラ)と阿片に手を焼くよ”と捨て台詞を吐かれたというエピソードが残っているほどです。阿片についての日本の ...

慰安婦記念館「おばあちゃんの家」

台湾の山地や海岸地帯に原住民が住んでおり、その神話の中には、日本人が兄弟・同胞として登場しています。同じく台湾統治を行ったオランダや中国(清)は、原住民神話には敵として登場してきます。日本の台湾統治は、日清戦争終了から第二次世界大戦が終わるまでの半世紀間続き、先の二百年を超える中国(清)の統治に比較し、日本の統治は見事でした。清の統治時代は、官吏の腐敗で百件を超える騒乱があったに対し、台湾のために命をささげた人たちも数多く出た日本の統治とは大きく違いていました。この本質により台湾人の日本ひいきを生まれまし ...

嘉義農林学校野球部

近藤兵太郎をご存じでしょうか。1931年(昭和6年)日本統治(日本植民地)時代台湾南部の小さな町・嘉義(かぎ)弱小だった嘉義農林学校野球部(略してKANO(カノ)の選手たちが日本人監督の指導のもとで努力して練習を積み重ね、日本の甲子園大会に出場して決勝戦まで進みました。“俺がお前たちを必ず甲子園に連れていく”。当時嘉義で会計の仕事をしていた近藤兵太郎は野球部の指導を引き受け、厳しい練習を開始。球場を神聖な場所として一礼することも教えます。 台湾の高校の野球部は日本人生徒のみで構成されていることが多かったそ ...