北投温泉博物館(旧:北投温泉浴場)
北投温泉博物館(旧:北投温泉浴場) 北投温泉博物館 台北で有名な温泉地の北投にある、1923年に建てられた公共温泉浴場が、現在の北投温泉博物館です。レンガ造りに瓦屋根、洋和風的な建物で、1階には大浴場(男湯)や女湯など浴室があり、2階は大広間を中心に、北投温泉の歴史や北投石も展示されています。元々、この地には公衆浴場の滝の湯(現存)が営業していましたが、この公共温泉浴場を皮切りに台北州庁の手によって温泉地として開拓されました。中華民国政府に接収後、かなりの間、放置されていましたが、現在は博物館として修復整 ...
明の鄭成功時代
「明の鄭成功時代(ヂォン・チォンゴン)」 1644年李自成(リジセイ)の反乱で明朝が滅亡し、満州族の清朝が進出します。反清復明(清に反攻して明を復活させる)の旗印を掲げて清朝に対抗していた鄭成功氏は清朝対抗拠点とするために、1662年オランダ東インド会社を攻撃し台湾を統治します。史上初めての漢民族による統治がはじまります。鄭成功氏は台湾を「東都」と改名し、現在の台南市辺りを根拠地としながら台湾の開発を推し進めますが1662年に病死し、続く鄭成功氏の子供たちも清の攻撃に耐えられず、3代で統治は終わってしまい ...
アロー戦争(天津条約)
「アロー戦争(天津条約)」 19世紀半ばにヨーロッパ列強諸国の勢力が中国にまで進出してくると、台湾にもその影響が及ぶようになります。1858年にアロー戦争に敗れた清が天津条約を締結したことにより、台湾でも台南・安平(アンピン)港や基隆港が欧州列強に開港されます。1884~85年の清仏戦争の際にはフランスの艦隊が台湾北部への攻略を謀り、清朝は日本や欧州列強の進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになります。台湾の防衛強化の為に清朝は、知事に当たる巡撫を派遣した上で、1885年に台湾を福建省か ...
鄭成功氏戦いから清朝による統治時代へ
「鄭成功(ヂォン・チォンゴン)氏戦いから清朝による統治時代へ」 明朝が倒れ清朝による台湾統治が始まり、中国大陸の漢民族が福建省、広東省から台湾へ移住してきます。このころ台湾に移住してきた漢民族(本地人、生粋の台湾人「本省人です」)」の言語(台湾語)は中国福建省の南部地域の言葉(厦門アモイ辺り)に非常に似ており、それが現在の台湾語につながっています。清朝は中華思想(簡単な説明、中国が世界の中心、皇帝は中国だけに存在しますので、当時中国の属国であった朝鮮は、日本の天皇を認めず、現在も日王と呼んでいる。)では台 ...
牡丹社事件(高士仏社事件)
「牡丹社事件」 1871年、そんな台湾に、宮古島民が乗った船が台風で台湾南部の八瑶湾に漂着します。乗員69人中、3人は水死、残り66人が原住民族のパイワン族の高士仏社に助けを求めましたが、誤解が生じ、54人が殺害されてしまいます。生き残った12人は中国福建省を経由して那覇に戻る事ができました。事件当時の宮古島は琉球王国に属していましたが、事件翌年の1872年、日本に併合され沖縄県になります。そこで日本政府は北京に大使を送り、牡丹社事件の解決を清朝に迫ります。しかし清朝は「化外(ケガイ)の民がやった」と拒否 ...
清朝時代の原住民
「清朝時代の原住民」 清朝は原住民を「番人」と称し、「生番」と「熟番」とに区別していました。清朝の統治下にあり徭役・納税義務の負担、清朝の法律が適用され、ある程度受容し漢人に近いと考えられたた原住民を熟番、統治外にあり中国文明を全く受容していないものを生番と呼んだ。中間段階にあるものを化番とする場合もある。 1722年、清朝によって「番界(境界線)」とよばれる漢人・原住民間の居住を東西に制定、漢人はこれを越えて進入・開墾してはならないとう法律により漢人による原住民進入・開墾は禁じられていました。実際は、漢 ...
台湾(フォルモサ)の発見
「台湾(フォルモサ)の発見」 15世紀から16世紀にかけてヨーロッパで大航海時代、アジアの海上はマカオを租借したポルトガル、フィリピンルソン島を拠点としたスペイン、インドネシアジャワ島を拠点としたオランダがそれぞれ海上の覇権を競っていました。1625年にオランダ人によって描かれた台湾全島図には、3つの諸島として描かれていた台湾ですが、1つの集まりと扱った最初の地図です。台湾は、16世紀中期ポルトガル船が台湾の近海を通過した際に船員が偶然水平線に緑に覆われた島を発見します。その船員は、台湾の美しさに思わず「 ...
スペイン進出・明軍とオランダ
台南市の安平古堡(1624年) 1622年に澎湖を占拠し、東アジアでの貿易拠点を築いたオランダ東インド会社(The Dutch East India Company)は、まず明の支配下にあった澎後の明軍と1624年に8ヶ月に渡る戦火を交えます。オランダと明両国の間で和議が成立し後、明から澎湖の要塞と砲台を破棄させ、オランダ人の台湾への移動を認めさせました。このようにして台湾を占拠することとなったオランダ人は、一鯤鯓(現在の台南市安平区)に熱蘭遮城を築城し、台湾統治の中心としました。 オランダによる統治期間 ...
オランダによる統治時代
「オランダによる統治時代」(1624年 - 1662年) オランダによる統治が開始されると、フィリピンルソン島を拠点としていたスペイン人が台湾進出を試みすがこれを阻み、1626年に台湾北部の鶏籠(現在の基隆)を占拠、社寮島(現在の和平島)にセント・サルバドール城を築城し、蛤仔難(現在の宜蘭)に進出、滬尾(現在の淡水)にセント・ドミンゴ城を築城しました。台湾南部を中心に活動していたオランダ東インド会社ですが、続く日本への進出を試みます。しかし北部を占拠するスペインの勢力に妨害され進捗をみません、閉塞状態の打 ...
日本統治時代に始まった「国立台湾博物館」
日本統治時代に始まった「国立台湾博物館」 ニニ八公園の北側一角にある台湾博物館は、日本統治時代の1908年(明治41年)に設立された、台湾で最も歴史のある博物館。現在に残る建物も、1915年(大正4年)に完成したもの。建物自体が史蹟の1つです。日本撤退後も「台湾省立博物館」のちに「国立台湾博物館」と変遷しながら、今日まで運営。常設展示では、台湾の歴史、原住民族、地質や生物など、各セクションに分けて台湾に纏わる様々な展示が行なわれています。
台北市立第一女子高級中学
台北市立第一女子高級中学(旧: 台北第一高等女学校) 台北第一高等女学校 司法院の真向かい、総統府の斜め向かいにあるのが、台北市立第一女子高級中学、現在でも名門中の名門の女子高校です。 創立は1904(明治37)年、まず台湾総督府国語学校第三附属学校として開校。その後、1909明治42)年に台北州立第一高等女学校となり、1922(大正11)年台北第一高等女学校と改称されます。現在の校舎は、1932(昭和7)年に建てられた鉄筋コンクリート製です。関東大震災を経て、当時の耐震構造基準に則した建物になっています ...
総統府の北側隣に立つのが台湾銀行
台湾銀行本店(旧:台湾銀行) 総統府の北側隣に立つのが台湾銀行。 日本統治時代には、発券業務を受け持つ中央銀行でありながら、台湾最大の商業銀行としても運営されていました。中華民国になってからも台湾では商業銀行でありながら、2000年まで発券業務も行う特殊銀行でした。1960年代の銀行を舞台とする、2007年放映の日本のドラマ「華麗なる一族」(原作:山崎豊子)で、銀行のロビーがロケに使われました。
前金天主堂 カトリック信仰
玫瑰聖母堂(まいかいせいぼせど) メイクェイ ションムー ション (高雄玫瑰聖母聖殿主教座堂) 台湾では、古くからカトリック信仰しており、その象徴的な玫瑰聖母堂(前金天主堂とも呼ばれています。)を紹介します。玫瑰聖母堂はカトリック教会が台湾で建立した最初の教会で、アジア3大聖堂の一つにも数えられています。近代の台湾カトリック教会の発祥地としても知られ、台湾光復後にカテドラルとバシリカに指定されています。ゴシック様式とロマネスク様式の天高くそびえ立つ尖塔、アーチ型の窓枠、バラ窓を用いた美しく華やかな建築様式 ...
総統府の南側に並んで建つのが司法院
司法院「司法大厦」(旧:台湾総督府法院/裁判所) 総統府の南側に並んで建つのが司法院(司法大厦)。 1934年(昭和9年)に完成。設計者は後に台湾建築学会会長となった井手 薫。現存する済南基督長老教会(旧:日本基督教団台北幸町教会。1916年建立)も手がけています。台湾総督府法院には、高等法院、台北地方法院、検察局が設置され、台湾における最高司法機関でした。戦後、台湾に移管後も、司法院、最高法院(現在は移転)として機能してきました。4階部分は1977年に増築されたものですが、国定史跡となっています。
台湾総督府とその周辺
台北 総統府とその周辺 総統府を周辺とする一帯には、日本統治時代の建物の多くが現役で使われています。日本と同様、地震の多い台湾において、日本の建築物は耐震構造に優れていたという点も挙げられます。 中華民国総統府(旧:台湾総督府) 台湾旅行 台湾総督府 日本統治時代の象徴的かつ代表的建造物といえば、現在の総統府、台湾総督府の建物でしょう。1919年に完成。基本設計は、戦前、日銀本支店の建築を多く手掛けた長野宇平治で、日本初のコンペ(デザイン競争)で選ばれました。赤レンガに白い石を挟むデザインは、長野の師とも ...