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阿里山開発の父

「阿里山開発の父 河合鈰太郎博士」

観光用鉄道としては、台湾中南部、国家風景区(国定公園)に指定されている阿里山の森林鉄道が有名です。軌道幅は762ミリと狭く、小さな鉄道であるが、標高差は2,244メートルに及び、連続スイッチバックやスパイラルもあり、美しい車窓を堪能できます。アンデス高原鉄道やインドのダージリン鉄道とともに、世界三大山岳鉄道の一つに数えられています。現在は蒸気機関車の復活運転なども実施され観光用に使われていますが、もともとは日本統治時代、阿里山で伐採される豊富な木材の搬出用に作られたものでした。阿里山は15の山々の総称で、その一つが東アジアの最高峰(標高3,952メートル)玉山(ぎょくさん)です。台湾総督府時代は新高山と呼ばれており、明治天皇が「新しい日本最高峰」の意味で名づけたものです。現在は台湾を代表するマウンテン・リゾートとなっており、遊歩道なども整備されていますが、その途中に鬱蒼と生い茂った樹林の中に一つの石碑が建っています。正面には「琴山河合博士旌功碑」と刻まれています。「阿里山開発の父」と呼ばれた河合鈰太郎博士は、琴山とは博士の号である。「旌功」とは功績を紹介します。

河合博士は日本における近代森林学の先駆者として知られおり、1890年に東京帝国大学農科大学を卒業後、ドイツとオーストリアで欧米の林業学を学びました。1902年に台湾総督府民政長官・後藤新平に呼ばれ、台湾での林業開発を指導することになります。

当時、台湾では南北を結ぶ縦貫鉄道の建設が進められていましたが、その資材調達先として注目されたのが阿里山でした。しかし、河川は流れが急で水量が不安定なため、水運を用いることはできません。そこで台湾総督府は森林鉄道の建設を決め、1900年から地勢調査を始めていました。

河合博士は鉄道ルートの選定からこのプロジェクトに携わり、地形的な制約があり、軌道幅762ミリという軽便鉄道の規格で設計することになりました、又何度となく挫折しながらも工事は進められていき7年後の1907年西南部の嘉南平原北端の嘉義(カギ)から、標高2,000メートルの二萬平までの66キロが開通。12年後の1912年には阿里山まで全線開通し、本格的な森林資源の搬出が始まりました。河合博士は生態環境を維持しながら計画的に伐採を行い、同時に植林事業も進めていき森林資源の保全を優先しました。この実績は林業関係者の間では今も高い評価を受けています。台湾南部の灌漑事業を手がけて「百万人の農民を豊かにした」と李登輝元総統に言わしめた八田輿一氏に並ぶとも言われています。

河合博士は1931年に東京の自宅で永眠。その後門下生たちによって、記念碑が建立されることになり、阿里山神社の神苑がその場所に選ばれ、1935年に建立された樹霊塔も残っています。切り出された樹木の霊を慰めるためであったのです。

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