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士林国民小学 六士先生之墓

明治教育界の先駆者、伊沢修二

1895年、日本による台湾統治の開始と同時に伊沢修二が創設した芝山巌学堂「士林国民小学」をこの小学校の始まりです。芝山巌学堂が創設された翌年、日本人教員6名が土着の匪賊(ゲリラ)に惨殺されるという痛ましい事件が起りました。この犠牲者を祀る「六士先生之墓」は、戦後蒋介石政権によって破壊されたのですが、士林国民小学の校友会の手によって立派に再建されました。

小学校に音楽教育を導入した功績もある。「仰げば尊し」は伊沢の作曲とも言われています。1895年4月、台湾の初代総督に内定していた樺山資紀(すけのり)との会合の際、新領土になった台湾には教育こそ最優先にすべきだと意見具申した所、樺山から自らその任に当たるよう勧められ台湾赴任を決意した。

日本統治前の台湾は、清国官憲に対する住民の反乱が3年・5年ごとに繰り返されていました。また「瘴癘(しょうれい、風土病)の地」とも呼ばれ、平定に向かった日本軍5万の約半数がマラリア、赤痢、コレラなどの病に冒されたほどでした。そのような土地にまず教育を、という伊沢の覚悟は計り知れません。

5月18日、台湾総督府の始政式の翌日に、彼は学務部長見習いとして台北で仕事を開始しました。台湾統治の初日に教育行政を開始し、日本教育界の中核的人材が惜しみなく投入している所に、明治政府の台湾統治への意気込みが伝わってきます。

6月26日、台北・北郊の士林の街にある小高い丘・芝山巌にある廟を借り、学堂とした。地元の有力者を集めて「自分たちがここに来たのは戦争をするためでも、スパイをするためでもない。日本国の良民とするための教育を行うためだ」と説いた。地元民たちは半信半疑ながら、10代後半から20代前半の子弟6名を出してくれた。

六氏先生の遭難

1906年正月、伊沢が講習員(教員)の募集のために帰国している間、留守番の楫取道明以下、6名の日本人教師は台北・総督府での新年の拝賀式に出席予定、士林の警察署に合流すべく再び山を下りる途中で、百余名のゲリラに遭遇し、防戦空しく惨殺された。ゲリラ等は日本人の首で賞金が貰えるとの噂を信じて6人の首級をあげ、所持品・着衣を奪い、さらに学堂に上って略奪に及びました。

この事件の前から、伊沢は、台湾の教化は武力の及ぶ所ではなく、教育者が万斛(ばんこく、甚だ多い)の精神を費やし、数千の骨を埋めて始めてその実効を奏することができる。この言葉に示された教育者の在り方を、台湾では「芝山巌精神」と呼ぶようになった。後に芝山巌神社が創設され、台湾教育に殉じた日本人と台湾人教育者が祀られた。昭和8年時点では330人が祀られ、そのうち24人が台湾人教育者であった。

ある台湾人生徒は、公学校で教わった日本の恩師の事が忘れられず、戦後、日本への渡航が許されるや訪ねていきました。しかし手がかりは恩師の出身だと聞いた鹿児島のある町の名だけである。その生徒は竿の先に恩師の名前を大書して、その町の駅で誰彼なしに「この先生を知らないか」と聞いてまわった。たまたま地方新聞の記者が通りかかって、その心根に感動し、恩師を探し出してくれたという。

台湾の老人たちが日本統治時代を懐かしく思うのは、このような師弟愛が随所に咲いていたからです。そしてそれが語り継がれて若い世代でも親日感情を抱いている人が多いのです。台湾のような豊かで自由な隣国が親日感情を持ってくれている事の意義は計り知れません。伊沢や坂根のような我が先人たちの恩は、まことに「仰げば尊し」と言うべきです。

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